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ビルケナウ 絶滅収容所
ビルケナウはアウシュビッツⅡとも呼ばれ、ナチスドイツによりアウシュビッツⅠに追加してつくられました。
場所はアウシュビッツⅠから約3キロ離れたブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)で、ユダヤ人を絶滅させるための最大の収容所となりました。
現在アウシュビッツ⇔ビルケナウの間は無料のシャトルバスサービスがあり、誰でも自由に乗れます。
黄色のバスで本数はシーズンによりますが、私が行った夏場は10~20分に1本でした。
私の失敗
本編に進む前に、私の今回のアウシュビッツ見学においての失敗を皆さんに共有しておきたいと思います。
それは時間配分。
アウシュビッツⅠでの展示内容が予想以上に多く時間がかかってしまい、私のビルケナウでの残り時間は50分となりました。
というのも、私はこの後どうしてもシンドラーの工場にも行きたく予約を入れているので、時間に限りがあるんです。
ですから急ぎ足での見学となり見れなかった場所もかなりあったので、そちらを最後にまとめておきます。
ビルケナウはアウシュビッツⅠよりかなり広く、東京ドーム37個に相当します。
個人で行く場合は2時間~3時間の滞在時間を確保してください。
アウシュビッツにおけるユダヤ人迫害の多くのエピソードはビルケナウで起こっています。じっくり見学すべきです。
またアウシュビッツ主催のツアーでもビルケナウは限られた時間(だいたい1時間)に限られた場所のみの見学となるので、時間が許せばぜひツアー解散後に個人で改めて見学してみてください。
それでは本編へどうぞ。
死の門

死の門
とうとうここまでやってきました。
「この門をくぐれば出口はガス室の煙突だけ」
と言われた死の門をくぐると広大なビルケナウの敷地が広がります。
幼い頃の私が応援したかったアンネフランクが過ごした場所です。
アンネはビルケナウで約2ヶ月過ごしたあと、さらにメンゲレ医師(詳細はPart3)の選別でベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送され、そこでチフスという病気にかかって亡くなりました。
それはベルゲン・ベルゼン収容所がイギリス軍に解放されるわずかひと月前の事でした。
アンネフランクは特別ではありません。
彼女のような運命をたどった罪のない人がここには大勢いました。
ユダヤ人絶滅収容所の象徴ともいうべきこの死の門へ向かって、ヨーロッパ中から線路が伸びていました。
死の門と呼ばれる中央監視塔も現在は見学者が入れるようになっています。
ビルケナウ BⅡ区域

BⅡ区域
死の門を背にしてまっすぐ伸びる線路沿いをビルケナウの奥へ向かって歩き続けます。
線路を挟んで左手にBⅠ区域、右手にBⅡ区域とその奥にBⅢ区域があります。
最も広いBⅡ区域は死の門から見てa、b、c、d、e、f、gの順に、7つの区域に分けられました。
a:隔離収容所(男性用)
収容所へ新しくやってきた人に対し、暴力で服従させるために数週間隔離しました。
b:テレジンゲットーのユダヤ人家族収容所
チェコの首都プラハから北へ60キロほど離れた場所にある、町をまるごと収容所にされたテレジンゲットーから送られてきたユダヤ人のうち、1万8千人が収容されました。
ここでは家族がまとまって過ごせましたが、この区画が封鎖された時には7千人がガス室に送られ殺害されました。
c:ハンガリーのユダヤ人(女性用)
1944年5月から8月にかけてハンガリーから送られてきた約44万人のユダヤ人のうち、32万人をガス室送りにし、残った人々のうちの女性が収容されました。
収容された女性達は飢えや選別の危機にさらされながら、別の収容所への移送を待ちました。
d:男性用収容所
選別で労働力があると見なされた男性が収容されていました。
この区画に追加された場所に特別バラックがあり、懲罰班や特殊作業班が一般バラックとは隔離されて入れられました。
e:ロマ家族収容所
ロマ族はヨーロッパ各地を移動しながら暮らすスタイルの人々で、ドイツが半ば無理やり一種の民族とみなして迫害しました。
さらに、この区画には悪名高いメンゲレ医師の人体実験室も設けられました。
f:医療収容所(男性用)
外科、内科、感染症科、皮膚科が備えられましたが未整備のままで、常に患者が溢れていました。
12号バラックでは定期的に選別が行われ、回復の見込みがない人がガス室へ送られました。
g:倉庫群“カナダ”(詳細はPart1)
強制移住を強いられたユダヤ人の人々が略奪された財産が保管されていました。収容所に到着した際に没収されたトランクや、入所手続きの際にも髪や衣服、靴、その他の所持品すべてを奪われました。
ヒムラーがヘスに下した命令「ビルケナウを10万人収容規模にせよ」(Part3参照)は、のちに20万人規模へ構想が拡大し、ビルケナウはさらに拡張され続けました。

見張り台
有刺鉄線の向こうのBⅡaとb区域に木造バラックが並んでいるのが見えます。
これらは戦後に復元されたものです。
ナチスはアウシュビッツ撤退作戦においてビルケナウに300以上並んでいたバラックを焼き払いました。
点在するレンガの柱のようなものは各バラックに設置されていた暖炉の残骸です。
暖炉といっても隙間だらけの粗末なバラックでは十分に温められず、凍死してしまう人もいました。
ビルケナウ ランペ

人が運ばれた貨車
ランペと呼ばれるのは列車が人を降ろした場所です。
死の門からガス室までまっすぐ伸びる線路の中ほどにあります。
今は一両だけが残されていますが人がたくさん詰め込まれた貨車が連なってやってきました。
食料も与えられず何日も運ばれ続け、到着した時には亡くなっていた方もいます。

ビルケナウの奥に向かって伸びる列車
当時のカメラの技術だと日中の明るい時間に撮られた写真ばかりですが、アウシュビッツは夜も稼働していました。
深夜にビルケナウに到着した人は暗くて全貌が見えない中この広大な敷地に降ろされ、知らない言語(ドイツ語)で怒鳴られ犬に追い立てられたのです。

ここから選別が始まる

現在もほぼ当時のまま
列車が到着すると写真に写る線路左側の人が歩いているあたりに降ろされ、男女別に分けられました。
その後すぐ選別を受け、75%~80%はそのまま入所登録もする事なくガス室へ向かいます。
正面から続く線路はおよそ820mあり、ガス室までまっすぐ伸びています。
この線路はアウシュビッツ解放の9ヶ月前に引き込まれ、ガス室への移送の回転率を上げました。
それまでのガス室送りが決まった収容者は、アウシュビッツⅠやアウシュビッツとビルケナウの中間にあるユーデンランペからここまで歩かされていました。
ビルケナウ 追悼の場

線路の終わり
ここがヨーロッパ中から繋がっていた線路の終点です。
ビルケナウ内の3本の線路すべてがここにたどり着きます。
線路の正面にはアウシュビッツ犠牲者への国際追悼碑があります。
国際追悼碑を挟んで左右にガス室Ⅱとガス室Ⅲがあります。
犠牲者の国際追悼碑

国際追悼碑
カメラを構える私の背後にガス室Ⅱ、線路を挟んだ向こう側の木々の奥にガス室Ⅲがあります。
アウシュビッツへ連れてこられた人は130万人。
そのうち110万人が殺害されたといわれています。
実は犠牲者の数は正確には分かっておらず確認できているのが110万人で、そのほとんどがこのビルケナウで命を奪われました。
追悼碑の前には23のプレートがあり、犠牲になった人々の各国の言語でこう記されています。
この場所を永遠に絶望の叫びと人類への警告とします
ここではナチスが150万人もの男性、女性、子供たちを殺害し
その多くはヨーロッパ各国からのユダヤ人でしたアウシュビッツ=ビルケナウ
1940-1945年
ビルケナウ ガス室Ⅱ
ガス室の内部構造と当時の写真

ガス室Ⅱの解説
左の看板はガス室Ⅱの構造について。
A:地下へ降りる入口
C:脱衣所
D:ガス室
E:ツィクロンBの投入口
F:焼却炉へ繋がる5基の遺体搬入口
G:メンゲレ医師の遺体解剖実験室
H:煙突
I:遺灰置き場
J:遺灰がまき散らされた場所
K:焼却炉
L:一般エリアから隔離されたガス室へのゲート
N:線路の終着地
O:国際追悼碑
中央の看板の内容は以下。
右の看板は親衛隊によって撮影された当時の焼却炉の写真。
1基につき3か所から搬入されるようになっていました。
もっとも、ビルケナウにあったガス室はすべて破壊されてしまったので現在は残骸となっています。
破壊された証拠

解放当時のまま保全されている
選別でガス室へ連れてこられた人は「ガス室送りだ」なんて言われません。
自分がどこへ向かうのかもわからずここまでやってきました。
「入所前の消毒だ」
「シャワーを浴びる」
などという理由で服を脱ぐよう指示され、カモフラージュの石鹸まで持たされてガス室へ入れられます。
人を詰め込めばより早く息の根を止められ効率的だとして、ガス室の中は裸の人々でぎゅうぎゅう詰めでした。
アウシュビッツ関連の映画でガス室へ降りる階段のシーンが取り上げられるのは、ビルケナウのガス室ⅡとⅢが地下へ降りる構造になっていたからだと思われます。

焼却炉の残骸
歩道沿いにはガス室Ⅱの焼却炉部分が面しています。
平面だとわかりづらいですが上空から見ると解説どおりの形です。
T字の左側が入口です。
地下へ降りると脱衣所があり、裸になるとT字下部のガス室へ入れられます。
遺体はT字右側の搬入口から上部の焼却炉へ運ばれました。
T字の右下に見える2つの池には大量の遺灰が投棄されました。
池のそばには4つの石碑が建っており、そこにはこう刻まれています。
ここに彼らの遺灰があります
彼らの魂が安らかに眠れますように

ゾンダーコマンドの居住部分(ガス室Ⅱ)
ビルケナウには大型のガス室Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴの4つが設けられていましたが(Ⅰはアウシュビッツのガス室)、ビルケナウのガス室が完成するまでは農家を改造した2つの小屋を臨時のガス室として使っていました。
最初に稼働したブンカー1、通称“赤い家”と、追加されたブンカー2の“白い家”です。
赤い家はレンガ造りの色から収容者に赤い家と呼ばれるようになりました。
もとは住人のポーランド人一家からナチスが取り上げたもので、場所はビルケナウの樺林の端にありました。
(現在は収容所の敷地の外)
改造して作ったガス室の部屋は2つあり、そこに500名が押し込まれました。
アウシュビッツ所長のヘスは赤い家での虐殺について、
「農家に到着した収容者たちは殺菌消毒を受けると説明され服を脱いだ。
最初は落ち着いていたが、部屋に入るときに何人かが窒息死や絶滅という言葉を口にしパニックに陥った。
外に残っていた者はすぐさま部屋へ押し込まれドアは閉ざされた。」
と証言しています。
赤い家で殺害された人々は初期こそ埋葬されたものの、そのうち遺体は空き地で焼かれるようになりました。
その後大型のガス室がビルケナウ収容所内で始動すると、赤い家は集団虐殺の痕跡を消すため解体されました。
現在も解体されたまま保全されているので見学は可能ですが、収容所から少し離れているので相当時間に余裕がないと行きづらいと思います。

手向けられた一輪の花(ガス室Ⅱ)
赤い家と同じくポーランド人を追放してつくられたブンカー2“白い家”は、赤い家より一回り大きく、800名を収容するガス室に改造されました。
白い家も大型ガス室が始動すると一旦は使われなくなりましたが、ハンガリーから40万人以上のユダヤ人が移送されてくるとガス室が足りなくなり、再度稼働を始めました。
アウシュビッツが「殺人工場」と呼ばれるのは、工場のように生産性を図る仕組みになっていたからです。
白い家があった場所は保管庫カナダからさらに奥へ200mほど進んだ所です。
小屋はもう存在しませんが、基礎の一部が残っています。
また、白い家のそばには開けた場所があり、そこで遺体の焼却が行われていました。

収容者が盗撮した野外焼却の様子
遺体の処理は特定の収容者が親衛隊に強制され担わされました。
遺体処理に関わる収容者はゾンダーコマンドと呼ばれ、彼らはガス室の存在を告げ口できないように一般の収容者から隔離されていました。
ハンガリーのユダヤ人が送られてくると収容所のガス室がフル稼働した為、ゾンダーコマンドも900人いたそうです。
そんな彼らもまた口封じの為に数か月で殺され、定期的に入れ替えられました。
1944年の10月には自分たちの運命を悟ったゾンダーコマンドによる反乱が起こりガス室Ⅳが爆破されました。
この反乱にはカナダ隊も協力して貴金属を集め、近くの工場から火薬を少しずつ入手していたそうです。
しかし反乱はすぐに制圧され、その日のうちに400人以上のゾンダーコマンドや協力者が殺害されました。

右奥にガス室Ⅲの残骸が見える
ビルケナウのガス室は死の門を背にして左からガス室Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴと配置されていました。
ガス室ⅣとⅤは地下でなく地上につくられていたそうです。
全て見学したいところですが時間の都合上ここで引き返し、BⅠ区域に入ります。
ビルケナウ BⅠ区域

女性収容所だったバラック跡
BⅠ区域は死の門に近い方から順にa、bの2つに分かれています。
どちらも主に女性が収容されたバラックがありました。
こうやって写真を見返すと「もっと近くから撮ればよかった」とは思うんですが、この時はどこに遺灰が撒かれているかわからないのでむやみに歩道を外れたくないというのが心情でした。
今もビルケナウの地には遺灰や遺骨がそのまま残っているからです。
もちろん入ってはいけないエリアにはテープやロープが張られていますが、それがないエリアでも失礼のないように見学すべきだと思うのです。

レンガ造りのバラック群
BⅠ区域のa区画のバラックのうちいくつかは開放されていて、中を見学できるようになっています。
13号バラックは子供の収容棟、25号・26号バラックの収容者は特にひどい扱いをされており死のバラックと呼ばれていました。
25号・26号バラックの間には、周りに見えないよう壁が建っています。
粗末すぎるバラックの内部

中段
残り時間がわずかなので子供たちが収容された13号バラックのみ見学します。
他の大人のバラックも中は同じです。
3段に分けられた棚がひとつのバラックに60あり、180のスペースがありました。
そこへ大人が700名から800名が収容されていたので1つのスペースを寝床として4、5人で共有させられました。
上段はより寒く冬は凍死者が多く出ましたが、一番清潔なのも上段なので人気でした。
なぜならトイレ棟の使用は1日2回の午前・午後と決まっていたので、漏らしてしまう事が日常茶飯事だったからです。
そうすると上段の排泄物が下段に降ってくる事もあったそうです。
各バラックにはトイレ替わりのバケツがひとつ置かれましたが、ほぼ使えませんでした。
また、弱っている人は上段に上ることもできず、下段で寝ました。下段はもはや床がごつごつした石です。

4,5人が寝るスペース
ビルケナウでは子供はガス室送りの対象でしたが、終盤には子供が残されるようになっていました。
こんな劣悪な環境で子供たちが固まって寝ていたのかと思うと、どれほど怖かっただろうと言葉に詰まります。

簡素な屋根
バラックは夜には真っ暗になります。
窓から差し込む薄明かりの中、大勢が寝床を探していたそうです。

シンク
ビルケナウのバラックで暮らしたキティは、ここからたまに水が出たと話します。
しかしその水に大勢が群がるので小柄な彼女はシンクまでたどり着けなかったそうです。
壁にはたくさん字が書かれているのが見えます。
私には当時のものか見学者によるものかわかりませんが、前者だと信じたいです・・・。
ビルケナウ 50分で周れなかった所
私のビルケナウの見学は以上です。
行ってみてわかった事ですが、ナチスにとって都合の悪いものは奥まった場所に置かれていたという位置関係の問題と、破壊されていて目立ちにくいという問題で見学すべき場所やルートがかなりわかりづらかったです。
以下は私が見れなかった場所です。
- ブンカー2(白い家)と野外焼却場
- サウナ(収容者が登録・散髪・シャワー・着替えをした場所)
- ソ連軍捕虜の墓地
- 保管庫(カナダ)
- ガス室Ⅲ・Ⅳ・Ⅴ
- 人骨が撒かれた池
- 25号バラック(死のバラック)
- トイレ・洗面棟
- BⅡ・BⅢ区域
- ブンカー1(赤い家)
振り返ってみると見れなかった場所が多くて悔やまれます・・・。
やはりガイド付きツアーでも1時間だとかなり限られた場所の見学になると思われます。
特にサウナは現在ビルケナウ唯一の資料館となっているので、見学の際はしっかり時間を確保した上で訪れてくださいね。
アウシュビッツ=ビルケナウの行き方はこちら↓

Part1はこちら↓

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