ついに個人で負の遺産「アウシュビッツ強制収容所」へ< Part3>

アウシュビッツ 10号棟 ポーランド
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Part2はこちら↓

ついに個人で負の遺産「アウシュビッツ強制収容所」へ< Part2>
アウシュビッツに連れてこられた人々が強いられた事、奪われた思い出、与えられた過酷な環境について。Part1に続きアウシュビッツ強制収容所の見学を写真と解説を交えながら綴ります。

アウシュビッツⅠ 10号棟

狂気の人体実験

アウシュビッツ 10号棟

10号棟

10号棟は閉ざされているので見学はできません。

ここは一般の収容棟とは違い特別でした。

アウシュビッツの残虐行為の中でも非道を極めた人体実験が行われていたのです。

アウシュビッツの収容者は労働力だけでなく、ヒトを研究する為の実験台として研究者や医師からも目を付けられました。

カール・クラウベルグ

ドイツの産婦人科医カール・クラウベルグは、数百人のユダヤ人女性に対して断種実験を行いました。

女性を妊娠させないようにして特定の種族を根絶させる方法を確立する為です。

クラウベルグは早く安価に不妊化させる方法を研究するため女性に化学刺激物を注射し、多くの女性は合併症により亡くなりました。

また、病死に至らなかった人もクラウベルグの解剖実験の為、故意に殺害されました。

 

ヨーゼフ・メンゲレ

アウシュビッツの医師達の中で最も有名なのはヨーゼフ・メンゲレです。

メンゲレはハンサムで収容所の子供たちからは“ヨーゼフおじさん”と慕われ、お菓子を与えたり音楽を聴かせたり、子供を車に乗せ収容所内をドライブしたりと一見親切そうに見えます。

しかしその実態は子供たちをモルモットと呼び鬼の所業で痛めつけた鬼畜そのものでした。

子供たちと楽しい時間を過ごしたその翌週には、その子たちを麻酔もかけずに解剖して臓器を取り出したり、目の色を変えようと化学薬品を眼球に注入したりするのです。

メンゲレに特に狙われたのは双子でした。

メンゲレはドイツ人(アーリア人)を増やす為に双子に関する研究に没頭し、人で満杯の貨車がビルケナウに到着すると

「双子!双子はいるか!?」

と収容者の中から双子を探し出し、自身の研究の“ストック”として特別バラックへ入れました。

メンゲレの双子達は1,500組3,000名にも上りましたが、生き延びられたのはたったの180人

彼らはのちに収容所で見た事を証言しています。

ラクス
「双子の片方からもう一人へ血液を移し替えるという実験が行われました。」

タウブ兄弟
「何組かの双子が実験のために大量の血液を抜かれ、身体中から血がすっかりなくなりまるで空のビニール袋のようになって床に倒れこみました。
そのあとはただ殺されるだけでした。」

ゼヒラ
「メンゲレは若くハンサムで、自分の事を双子の父と呼んでいました。
誰かが何かをしてもらいたいと要望を出すと、メンゲレはその望みを細かく書き留めました。
そのあと夜になって、望みを言った人が連れていかれる事がよくありました。その人は二度と戻ってきませんでした。」

双子の姉妹エヴァ
「メンゲレから注射を受け高熱を出し、“残念だな。あと2週間の命だ。”と聞きました。
私は自分が死んだら姉のミリアムも殺される、絶対に死ぬわけにはいかないと思いました。」

エヴァの姉ミリアム
「アウシュビッツにはメンゲレが書いた毒ガスで殺された双子の名前のリストがあります。
実は妹のエヴァと私の名前もそこに載っています。ソ連軍が迫ると実験の証拠になる私たちはガス室に入れられましたが、ツィクロンBがもうなくてガス室から出されました。」

生き延びた双子達は解放されたあとも後遺症に苦しんだり、トラウマに悩まされました。

また、メンゲレは収容所での選別も担当していました。

オペラのアリアのようなものを口ずさみながらまるでオーケストラを指揮するかのように、

「はい右、はい左、みぎ、ひだり」

と優雅に手を左右へ振るのです。

その手が一方は命の猶予を与えもう一方はガス室送りにしている事など、気にする素振りもありません。

白い手袋を付けていたメンゲレは、アウシュビッツで「死の天使」と呼ばれ恐れられました。

アウシュビッツⅠ 11号棟

収容所の刑務所

アウシュビッツ 11号棟

11号棟

11号棟は主に監獄として使われていました。

アウシュビッツそのものが監獄ですが、その中にさらに刑務所がありました。

1階と2階には懲罰を受ける囚人や逮捕されたポーランド人が収監されていました。

また、1階の入口近くには親衛隊の宿直室や裁判が開かれた部屋があります。

写真の出入口は裁判で死刑を宣告された人々が出てきた中庭側にある出入口です。

中庭には大勢が処刑された死の壁があります。

アウシュビッツ 地下牢

鉄柵の向こうには絞首台が見える

見学者が向かっているのは11号棟の地下です。

この廊下の右手に地下へ降りる階段がありそこから先は撮影禁止です。

地下は閉鎖された空間に狭い廊下が伸び、1号から28号の地下房が並んでいます。

電灯はありますが薄暗く、かなり息苦しい雰囲気で誰もが長居はしたくないと思います。

処罰の内容は様々で17号から19号に入れられた人々は餓死刑で飢えて亡くなりました。

20号は換気と明かりが制限された闇牢で、真っ暗な中に入れられ窒息死する事もありました。

22号は立ち牢で90cm四方の狭い空間に4人が入れられ膝を折る事も叶わず直立を強いられました。

また収容者を効率よく殺す方法を模索していたナチスは、この地下で初めてツィクロンBを使った毒ガスによる虐殺の実験を行い、850人が犠牲になりました。

死刑の身代わりになったコルベ神父

マキシミニアノ・マリア・コルベ

アウシュビッツという地獄の中でも慈悲の心を失わなかった人がいます。

コルベ神父です。

コルベ神父はポーランドでカトリック教の司祭を務めていて、修道院が病院となった戦時中にはユダヤ人にも同じように看護していたのでナチスに目を付けられていました。

その後ついにコルベ神父が逮捕されると人徳のあった彼を守ろうと20名もの修道士が「自分を身代わりに」と申し出ましたが却下され、コルベ神父はアウシュビッツに送られてしまいます。

自分が身代わりに…

1941年の夏。

アウシュビッツの14号棟から脱走者が出ました。

所長のルドルフ・ヘスがその連帯責任として同じ棟から10名をランダムに選び餓死刑を言い渡すと、そのうちの一人の男性が妻子を想って泣き崩れました。

ポーランド軍の軍曹フランツェクです。

ナチスのポーランド占領に抵抗して捕まった彼は叫びました。

「もう一度妻と息子たちに会いたい」と。

 

そこへ収容者の列から一人の男性が歩み出てきて

「私が妻子あるこの人の身代わりになりたい」

と申し出ました。

その男性こそがコルベ神父です。

彼は

「私はカトリックの司祭ですから(=妻子はいませんから)」

と穏やかに言いました。

所長のヘスをはじめ、その場にいた全員が呆然となりました。

パンの奪い合いはあってもみずから命の身代わりを申し出るなんてアウシュビッツではありえない事です。

しばらくしてヘスは「よろしい」とコルベ神父の申し出を認めました。

フランツェクは収容者の列へ戻され、コルベ神父は他の9人と共にこの11号棟の地下にある餓死牢18号に閉じ込められました。

祈りと讃美歌が響く地下牢

餓死牢に入れられた人には水も食料も与えられず、ただ死を待つしかありません。

飢えと渇きのせいで錯乱し、狂死に至るのが通常でした。

しかしコルベ神父は人々の為に祈り、励まし続けました。

次第に衰弱して死んでいく人たちの為に他の牢の受刑者と一緒に歌い、コルベ神父と一緒に閉じ込められた人は尊厳のある死を迎える事ができたのです。

コルベ神父の他人を慈しむ心により、18号の牢は聖堂と化していました。

2週間が経ち18号の牢に残っていたのはコルベ神父を含めて4人になっていました。

餓死刑にしてはあまりにも長すぎると判断した親衛隊は、4人をフェノール注射で殺害する事を決めました。

地下牢の門番と通訳係だったポーランド人収容者のブルーノが、のちに教会でその頃の様子を話しています。

「毎日のように祈りと讃美歌が聴こえ地下通路にこだまし、まるで聖堂のように感じました。

しかし囚人たちが弱るにつれ、祈りの声もささやきになっていきました。

上層部がコルベ神父へのフェノール注射による毒殺を決め、病人棟担当のボックが呼び寄せられました。

ボックが近づくとコルベ神父は祈りの言葉をつぶやき、みずから腕を差し出しました。

私は見ていられず用事を口実に外へ飛び出しました。

親衛隊員が引き上げるとすぐに私は地下へ戻りました。

コルベ神父は牢の後部の壁にもたれて座り、頭は左に傾き目は開いたままでした。

その表情は穏やかで、輝いていました。」

救われた命

コルベ神父に命を救われたフランツェクはザクセンハウゼン強制収容所へ送られた後連合軍に解放されました。

自由になり無事に妻のヘレナと再会を果たしましたが、残念ながら2人の息子はソ連軍の爆撃により亡くなっており、二度と会う事は叶いませんでした。

その後のフランツェクは、長い間コルベ神父を犠牲にしてしまった事への自責の念に苦しみ沈黙を守りました。

彼はコルベ神父の死の宣告書にサインした事への深い罪悪感を感じていたのです。

しかし自身が貴重なアウシュビッツの生存者であると自覚してからは、ヨーロッパやアメリカ各地でコルベ神父についての講演会活動を生涯続けました。

天寿を全うしたフランツェクは93歳でコルベ神父のもとへ旅立ち、コルベ神父が開いた修道院の墓地に眠っています。

日本にゆかりがあったコルベ神父

アウシュビッツの聖者となったコルベ神父、実は日本でも布教活動を行っていました。

1930年。

2人の修道士と共に長崎へ来日したコルベ神父は、カトリック教の雑誌を出版し現在も月刊誌として続いています。
さらに哲学の博士号を持っていたコルベ神父は、長崎の神学校で哲学について教え、その翌年には修道院を設立しました。

そのまま日本で活動を続けていればアウシュビッツに行く事はなかったかもしれないと私は悔しいのですが、きっとコルベ神父ならアウシュビッツの人々に自分が必要だったと語るのでしょうね。

アウシュビッツⅠ 10号棟ー11号棟中庭

死の壁と呼ばれた処刑場

アウシュビッツ 中庭

目隠しされた窓

実は人体実験に使われていた10号棟と地下牢がある11号棟は収容棟群の一番奥の一角にあります。

この10号棟と11号棟の間は、隔離するかのように写真のとおり出入口に壁があります。

他の収容棟同士の間は筒抜けですからこのような壁が設けられているのはここだけで、写真に写っている人たちは中庭の見学を終えて収容棟群の方へ戻ろうとしています。

この中庭では死刑判決を下された人々が処刑されました。

10号棟の窓は、中から処刑の様子が見えないように板で覆われています。

その手前に立っているのは宙づりの刑に使われた柱です。受刑者は両手を背中で縛られ吊るされました。

アウシュビッツ 死の壁

死の壁への献花

中庭の奥には死の壁と呼ばれる壁があります。

この壁の前に5,000人以上の人が立たされ銃殺されました。

犠牲になったのは先ほどの11号棟で行われた裁判で死刑宣告を受けた、主にポーランドの政治犯やソ連軍の捕虜です。

裁判とはいっても名ばかりの、数時間で数十から百人以上も死刑判決を下す形だけのものです。

この死の壁は戦後に復元されたもので、本物は終戦前にドイツにより解体されました。

アウシュビッツ 死の壁

見上げると縞模様

死の壁からふと顔を上げると、囚人服と同じストライプの旗が揺れていました。

少しでも犠牲者の魂が慰められますように・・・。

アウシュビッツⅠ 集団絞首台

アウシュビッツ 集団絞首台

集団絞首台

この枠組みは復元された集団絞首台です。

アウシュビッツでは絞首刑には移動式の絞首台を用いていましたが、この集団絞首台はポーランド人12名を一度に絞首刑に処するために設置された大型のものです。

主に脱走やその補助を企てた疑いをかけられたり、収容所の外での労働の際に市民と接触した人がが見せしめとして点呼時に収容者の前で処刑されました。

アウシュビッツ 絞首刑

見せしめ

そばには処刑の様子を見ていた元アウシュビッツ収容者のイエジが、当時を振り返りデッサンしたものがあります。

首がだらんと垂れ下がり、絶命した人たちが並んで吊るされていて異様な光景です。

次にアウシュビッツへ到着した人々は何も知らずに、犠牲者達が着ていた囚人服を着せられるのでしょうか。

命を懸けた点呼

アウシュビッツ 点呼広場

点呼広場

16号棟17号棟の間は広くなっていて収容者はこの広場の正面にある集団絞首台に沿って集められ、点呼が行われました。

朝と夕方、毎日です。

この点呼は命がけのつらいものだったそうです。

酷暑や極寒の中で数時間直立でいなければならず、倒れて亡くなる人も少なくありませんでした。

ここでも選別が始まったり、労働中に亡くなった人を収容所まで連れ帰り亡骸を点呼に参加させたりと、あらゆる意味で死と隣り合わせでした。

親衛隊用区域と収容所の境界線

アウシュビッツ 監視塔

この先親衛隊区域

有刺鉄線の向こうはナチス親衛隊の区域です。

左側の建物は親衛隊用の病院、右側の建物は管理部を担っていました。

アウシュビッツを囲む有刺鉄線には高圧電流が流れていて、収容者が脱走できないようになっていました。

収容所の暮らしに耐え切れず、夜中にこの高圧電流にみずから身を投げて亡くなった人もいます。

アウシュビッツ 監視塔

監視塔

誰もいなくても見張られているような気がします。

アウシュビッツ

振り返ると並ぶポプラの木

アウシュビッツ内を歩いているとイスラエルからの学生団体や欧米各国からの見学者が多くみられます。

また溝掃除をしていた学生グループ(おそらく地元ポーランドの子たち)もいて、それぞれの

「残そう・知ろう・伝えよう」

が言葉のわからない私にもはっきりと伝わってきました。

今ではドイツ人もユダヤ人も混ざって見学している事が犠牲者にとっての慰めになるのかもしれません。

アウシュビッツ

境界線左側

正面の建物は親衛隊の車庫。

アウシュビッツ

境界線右側

左の建物の奥にナチスの司令部があります。

正面の木の向こうはソラ川です。

ソラ川はとても澄んだ綺麗な川で、アウシュビッツ所長ヘスの息子インゲブリギットは少年時代の思い出として家族で川沿いで乗馬やピクニックを楽しんだ事を挙げています。

もちろんそこにはひとつの家庭を守る父としてのヘスもいました。

一方アウシュビッツを脱走した数少ない人物カジミエシュは、2月の極寒の夜に服を脱ぎソラ川を渡りました。

氷の浮かぶソラ川を半分ほど渡ったところで、背後のアウシュビッツからけたたましくサイレンが鳴ったそうです。

背筋が凍るとはまさにこの事。

当時のソラ川は時折、突然黒く染まりました。

なぜならアウシュビッツの犠牲者たちの遺灰を大量に捨てたからです。

アウシュビッツⅠ 所長ルドルフ・ヘスの処刑台

アウシュビッツ ルドルフヘスの処刑場

ここにはもともと収容所のゲシュタポ(秘密国家警察)の事務所が建っていました。

写真の左下に写っているのが建物の基礎です。

当時はその事務所で脱走工作や収容所内での抵抗運動に関しての捜査が行われており、疑いのあった収容者が尋問や拷問をされていました。

そしてドイツ敗戦後の1947年4月16日。

アウシュビッツの初代所長ルドルフ・ヘスが、ポーランド最高裁の判決によりこの場所で絞首刑に処されました。

写真の右部分に写っているのがその時使われた絞首台です。

さらに注目すべきは、左部分に写っている煙突。

この建物はアウシュビッツⅠ唯一のガス室です。

ヘスはクラクフで死刑判決を受けたあと、アウシュビッツへ連行されガス室のすぐそばで処刑されたのです。

自身が司令官を務めていた強制収容所へ連れていかれ殺されるなんて、皮肉なものですね。

ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス

ヘスは、とても真面目な男でした。

1940年4月。
ヘスはナチス親衛隊トップのヒムラーに命じられ、もともとあった建物を用いて強制収容所を開設し所長に就任しました。
それがアウシュビッツです。

その約一年後、ヒムラーがアウシュビッツへ視察にやってきてヘスに

「アウシュビッツの収容者数を3万人まで増やし、さらに10万人収容できる第二収容所を設置する事」

を命じました。

ヘスはすぐにアウシュビッツⅠの増築とビルケナウの建設に取り掛かり、ヒムラーの命令通りアウシュビッツⅠには3万人、ビルケナウには14万人を収容しました。

ところがそこへヒムラーから追加の命令がきました。

「ユダヤ人を抹殺する為の絶滅収容所へ改築せよ」

 

ヘスはこの命令を受けたときに感じた事をのちにこう記しています。

この命令には何か異常で途方もない物があった。
しかし私は命令を受けたのだから実行しなければならなかった。この虐殺が正しいかどうかなど考える事も許されていなかったのだ。

そうしてヘスは11号棟の地下でツィクロンBを使ったガスによる毒殺の実験を始め、その規模を最大の物へと拡大していくのです。

アウシュビッツⅠ ガス室

アウシュビッツ ガス室

ガス室

アウシュビッツⅠのガス室は現在も残っており一般公開されています。

ガス室はアウシュビッツ強制収容所として開設される前はポーランド軍の倉庫でした。

収容所開設後には亡くなった収容者の遺体安置所として運用され、隣に3基の焼却炉が設けられました。

その後1941年秋から約1年間に渡り、遺体安置所はガス室となりました。

焼却炉の煙突からは1日に340人が煙となって空へ昇っていき、このガス室で数千人のユダヤ人やソ連軍捕虜が犠牲となったのです。

ビルケナウのガス室が始動すると焼却炉と煙突は解体されましたが、ガス室はそのまま残され親衛隊の防空壕として引き続き活用されました。

解体された焼却炉と煙突は戦後に本物の部品を使って組み直され、2基の焼却炉と煙突が復元されました。

 

実際に建物を前にして私はものすごく怖くなってしまい、中へ入るのを躊躇していました。

ここに至るまでに私の恐怖メーターはとっくに振り切っているんです。

いつもならブレや角度を心配して同じ写真を何枚も撮るのにアウシュビッツの写真は一枚ずつしか撮っておらず、中にはその一枚がブレてしまっているものもありました。

恐怖心とたたかいながら写真を撮ると最低限しか撮れないようです。

しかしここまで来てガス室を見学しないわけにはいきません。

せめて人がたくさんいるうちに一緒に行かないと・・・自分だけでは絶対に入れません。

奪われたいのち

アウシュビッツ ガス室

ガス室内部

私が半ば勢いで皆に紛れて建物に入ると、気づいたらガス室にいました。

入口からガス室まではあっという間で、脱衣所を通ったはずなのですが静かにパニクっていたようで記憶がありません。

ガス室内部はものすごい圧迫感で世界中から集まった数十人の見学者はショックのあまり絶句しています。

犠牲者の恐怖、苦しみ、悲しみ、無念・・・

こればかりはもう写真で伝えるには限界があります。

アウシュビッツ ガス室 爪痕

引っ掻かれた痕

この閉鎖された空間で数百人の全裸の人が泣き叫び、20分ももがき苦しみ、人の山を作りながら暗闇の中死に絶えていったのです。

しかもこの何倍もの規模のガス室がビルケナウには4基もつくられました。

これは大昔の事ではなく近代に起こった事。決して繰り返してはいけない事。

人に優劣をつけるとこんな恐ろしい世界になってしまうという事を、私たちは学ばなければなりません。

アウシュビッツ 焼却炉

焼却炉

ガス室の隣には前述の復元された3基のうち2基の焼却炉と遺体運搬用の台車があります。

復元といっても部品は当時の本物。

ガス室にできた人の山から遺体を運びここで焼却していました。

重要な場所ですが周囲の人々は左手の出口へ向かって足早に去っていきます。

もう皆ここにいるのがつらくてたまらないのです。

アウシュビッツⅠ その他の展示物

アウシュビッツ

時代を感じる看板

これにてアウシュビッツⅠの見学は終了です。

4・5・6・7・11号棟と、中庭・ガス室の見学で約3時間かかりました。

時間の都合で見れなかったところ

  • 13号棟:ロマ族へのジェノサイド(虐殺)
  • 14号棟:収容所にいたソ連軍捕虜の悲劇・アウシュビッツ解放と生還者の保護
  • 15号棟:ドイツのポーランド攻撃・アウシュビッツにいたポーランド人について
  • 16号棟:スロバキアでの反ユダヤ主義とホロコースト・アウシュビッツの控え室テレジン収容所(チェコ)
  • 18号棟:ハンガリーのユダヤ人がたどった運命
  • 20号棟:毒注射で数千人が殺された部屋・フランスのユダヤ人と犠牲になった1,000人の子供たち・戦時中のベルギーについて
  • 21号棟:オランダのユダヤ人・ヴェステルボルク収容所とアウシュビッツのドキュメンタリー映画の展示
  • 27号棟:ホロコーストの歴史と犠牲になった150万人の子供たちの追悼

アウシュビッツⅡビルケナウの見学へ続きます↓

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