ついに個人で負の遺産「アウシュビッツ強制収容所」へ< Part2>

アウシュビッツ ポーランド
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Part1はこちら↓

ついに個人で負の遺産「アウシュビッツ強制収容所」へ< Part1>
アウシュビッツで起こったユダヤ人大量虐殺について、そこであった事、感じた事を解説を交えながら綴った記録。実際に見学した順を追って書いているので、行く予定がない人もこれを読めばアウシュビッツが今どんな所になっているのかがわかります。

アウシュビッツⅠ6号棟 1階

強いられた事

アウシュビッツ 遺品

大切な人の写真

アウシュビッツへ連れてこられた人々が没収されたトランクには、財産や生活用品だけでなく“思い出”も入っていました。

ナチスは帰れるという希望を与える為に「働けば自由になる」と門に掲げたり、収容者のトランクに名前を書かせたりしました。

しかし実際には思い出というささやかな心のより所すら奪っていたのです。

収容者の証言では

「母を見た最後」「父を見た最後」

という言葉が度々出てきます。

アウシュビッツでは家族であっても一緒には過ごせません。

選別というのは命の分かれ道でもあり、家族の分かれ道でもあるのです。

アウシュビッツ 囚人服

囚人服

実際に着用させられた囚人服です。

冬の寒さが厳しいオシフィエンチムでも与えられた衣服は囚人服のみ。

特にビルケナウ(アウシュビッツⅡ)がつくられたブジェジンカ村は湿地帯で、マイナス20度に迫る寒さです。

囚人服はアウシュビッツの収容者にとって財産となりました。

洗い場で身体を流すときにも脱げば盗まれる為そのまま水を被ったのです。

もっとも、ビルケナウでは3つの洗い場に5万人が押し掛け30秒ほどで追い出されたと生還したユダヤ人のキティは語ります。

アウシュビッツ 囚人番号

囚人番号

アウシュビッツへ到着した人々は囚人番号を入れ墨されました。

当時4歳だったマイケルはあまりの痛みに泣き叫んだと自伝に記しています。

この囚人番号は一生身体に残り、消せない記憶となって解放された生還者達を生涯にわたり苦しめ続けました。

アウシュビッツの囚人写真家

アウシュビッツ 犠牲者

犠牲者

廊下にはアウシュビッツで犠牲になった人々の写真が並んでいます。

選別でガス室行きを免れ、収容者として登録された人たちです。

一人ひとりの囚人番号、名前、生年月日、職業、収容所に来た日、死亡した日が記載されており、私が見た限りおよそ1か月から2か月ほどしか生きられなかった人が多い印象でした。

彼らの肖像写真をアウシュビッツで4年間にわたり撮り続けた人がいます。

ポーランド人のブラッセです。

彼はオーストリア人の父とポーランド人の母を持ち、ポーランドで生まれ写真の技術を身につけた青年に育ちました。

ドイツがポーランドへ侵攻してきた際、ブラッセはアーリア人の血を引く者としてドイツ国防軍へ入隊する事もできました。

しかし祖国ポーランドを捨てる事ができずそれを拒否した為、政治犯としてアウシュビッツに収容されました。

ドイツ語が堪能で写真家としての腕を買われたブラッセは、アウシュビッツで収容者の名簿記載班に任命されます。

列に並ぶ人々から漂うむせるような悪臭の中、撮影し続けた肖像写真は4万から5万枚にも上るとみられています。

アウシュビッツ 人体実験

ブラッセが撮影したメンゲレ医師の人体実験犠牲者の子供たち

さらにブラッセはナチスの医師による人体実験の記録を撮るよう強制され、本の装丁の為にそっくり剥がされた人の背中の皮や、見せしめに絞首刑にされた人々、鉗子で膣から子宮を引きづり出された10代の少女たち等の目撃者となりました。

やがてソ連軍がアウシュビッツに迫るとナチスはブラッセに写真の焼却処分を命令します。

しかしブラッセは写真家の使命として命に代えてでもこれらの重要な証拠写真を守ると決心し、命令に背きました。

朝になりナチスの親衛隊が自分を処分しにやってくる事を覚悟していましたが、彼らは退却しておりブラッセの命と写真は守られました。

彼が命がけで残した写真はナチスの犯した残虐行為を世界へ知らしめ、過ちを後世へ伝える手段となったのです。

解放後のブラッセ

アウシュビッツから解放された27歳のブラッセは、故郷へ帰り写真家としての活動を試みました。

ところが、カメラのファインダーを覗くとアウシュビッツで死んでいった人々の顔が浮かび、シャッターを切れません。

彼の心に受けた傷は深く、写真家としての人生は閉ざされてしまったのです。

ブラッセもまた95歳で亡くなるまでの長い間、苦しく重い過去を抱えながら生きる事を強いられた犠牲者です。

彼が目の当たりにしたナチスによる人体実験は10号棟の記事で改めて解説します。

アウシュビッツ解放と死の行進

アウシュビッツ 解放時

保護された飢餓状態の女性達

1945年1月27日、ソ連軍がアウシュビッツを解放しました。

そこで目にしたのは、伝染病や衰弱により動けなくなっていた数千人の瀕死の人々でした。


3ヶ月前の1944年10月。

ソ連やイギリス等連合軍の侵攻によりドイツの戦況が悪くなってくると、ナチスはまだ労働力として価値があると認めたユダヤ人を順次ドイツ国内へ移送しました。

アンネフランクもこの頃、姉のマルゴットと共にポーランドのアウシュビッツからドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所へ送られました。

それはすし詰めの貨車で4日もかかるつらい長旅でした。


2ヶ月前の1944年11月には退却と証拠隠滅を見据えた親衛隊トップのヒムラーの命令により、アウシュビッツのガス室は停止。

いよいよソ連軍が迫ってきた1945年1月。

アウシュビッツ撤退直前の数日間でナチスは慌てて収容者を数千人規模で殺害しました。


アウシュビッツの解放の9日前、1945年1月18日。

ソ連軍がクラクフまで接近し、ナチス親衛隊がアウシュビッツから撤退しました。

約6万人のユダヤ人も道連れです。

収容者達は1月の極寒の中、ドイツやオーストリアへ向けて何日も歩かされました。

これは死の行進と呼ばれ、遅れたり歩けなくなった人は容赦なく射殺されます。

アウシュビッツからの死の行進で1万5千人以上(推定)が亡くなりました。

アウシュビッツからの死の行進を強いられた当時16歳のサウルは、12日間ほとんど食べるものもなく歩き続けました。

森での休憩中に馬の死骸を見つけたときには、群がって食べたそうです。

アウシュビッツ

人間の極限

アウシュビッツに最初にたどり着いたのはソ連軍の第100師団突撃隊でした。

その中の一人シャピロ少佐

「バラックには遺体がそのまま放置されており保護ガーゼマスクなしではとても入れず、残された骨と皮だけになった人々は解放されるとは信じられずに自分たちはユダヤ人ではないと主張した。」

と語ります。

最初に収容所へ入ったグロマツキー中隊長

「収容所の門をくぐったが誰もおらず、200メートルほど進むと300人ほどのストライプの囚人服を着た人々が駆け寄ってきた。
ドイツ兵が変装しているかもしれないと警戒したが彼らは号泣し我々を抱きしめた。

そして数百万人がここで殺害され、12車両分のベビーカーがアウシュビッツから発送されたと聞いた。」

と証言しています。

また兵士に続いて収容所に入った記者のウシェルゲンナジーはおぞましい光景を目撃しました。

「我々はレンガ造りの建物に入り部屋をのぞいてまわった。
最初の部屋には血痕がついた子供服のコートやジャケットの山。
次の部屋には人工歯冠や金歯がびっしり詰められた箱。
その次の部屋には女性の髪の毛が入った箱。

そして囚人服の女性に案内されて入った最後の部屋にはハンドバッグや財布の皮製品。
女性はこう説明した。
“これらは全て人間の皮膚でつくられています”と。」

収容所での食事

アウシュビッツ 食事

粗末な食事

写真はアウシュビッツでの食事のサンプルです。

これが1日の食事のすべて。

1,300~1,700キロカロリーを食事の規定として定められていましたが、実際には半分ほどしか与えられませんでした。

朝:コーヒーと呼ばれる茶色く濁った苦い飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)
昼:具のほとんどないスープ
夜:一切れのパン(たまにマーガリンが付く)

パンは収容者たちにとってお金のような役割もしていました。

パンで条件の良い寝床を買ったり、トイレや洗い場を使う賄賂として渡したり、略奪される事もありました。

また収容者の中にも階級がつくられ、寝床や食事を優遇された人々もいました。

前述の写真家ブラッセが4年以上アウシュビッツで生き延びられたのは、親衛隊に気に入られ重宝された為です。

一般の収容者は粗末な食事に対して労働は1日10~12時間。

暑くても寒くても囚人服しかありません。

アウシュビッツ 子供たち

アウシュビッツの子供たち

アウシュビッツ解放後に収容所区域で見つかった子供服と、到着時に撮影された子供たちの写真です。

この小さな服を着る年頃の子供たちに何の罪があったのでしょうか。

ユダヤ人絶滅計画の中枢にいたナチスの将校アイヒマンは、

「子供を殺すことこそ意味があるのだ。」

と当時3人の子供を持つ父とは思えぬ思想で任務を遂行しました。

時間の経過がもたらした事

アウシュビッツ 解放後

ソ連軍が撮影した写真

ソ連軍はアウシュビッツを解放し収容者を保護しました。

食事や衣服を与えられ生気を取り戻しつつあった収容者たちに、後日改めて囚人服を着せて記録のための写真を撮りました。

ところが、子供たちに風邪をひかせないよう何枚も重ね着させて撮った写真は、後世に思わぬ物議を醸し出します。

「子供たちは健康そうだし、ホロコーストはなかったのではなかったのではないか」

という見解を持つ人が出てきたのです。

実際に1996年にはホロコースト否認論を支持するイギリス人歴史学者と、否認論は危険だと警鐘を鳴らすアメリカ人歴史学者および出版社の法廷での争いがイギリスの裁判所で行われました。

結果はイギリス人歴史学者の敗訴。

2006年には彼もホロコーストはあったという歴史を認めました。

アウシュビッツⅠ7号棟 1階

生活環境

アウシュビッツ トイレ

トイレ

アウシュビッツⅠのトイレは便器があるので見た目でトイレとわかりますが、絶滅収容所として稼働したビルケナウのトイレはただの穴の列が並んでいるだけです。

それも満足に使わせてもらえず、木でできた小屋にバケツが一つ置かれました。

当然ですが我々見学者のトイレは別に設けられています。

申し訳なくなるほど現代風の綺麗なトイレです。

有料(2ズウォティ/60円)なので見学の際は硬貨を用意しておいてくださいね。

アウシュビッツ 洗面所

洗面室

設備はビルケナウよりずっとマシですが、それでも1つの棟につき700人以上の人々が収容されていたのでやはり劣悪な環境である事に間違いはありません。

また収容者の中でも新しくやってきた人は立場が弱く、古参の収容者から理不尽に命令や禁止事項を言い渡されより屈辱的な生活を送りました。

アウシュビッツ 寝床

寝床

写真ではわかりづらいですが三段ベッドが並んでいます。

アウシュビッツⅠができた初期は床に藁や布団を敷いていましたが、収容者が溢れかえり寝床が足りず三段ベッドになりました。

アウシュビッツ

青空に慰められる

アウシュビッツは百聞は一見にしかずだと思い知らされる場所です。

本や映画や証言だけではわからないものだと身をもって感じました。

この時点ですでに私はまともに喋れなくなっている状況です・・・。胸が痛すぎて声が出にくい。

しかし、このあとも死の壁、地下牢、ガス室と受け入れがたい事実を目の当たりにしていく事になります。

Part3へ続く↓

ついに個人で負の遺産「アウシュビッツ強制収容所」へ< Part3>
人体実験、地下牢、アウシュビッツでコルベ神父が示した慈悲の心、死の壁、ガス室・・・。衝撃の現場が続々と登場します。文字と写真の限界を感じました。やっぱりアウシュビッツには行かなければ伝わらない事が存在します。

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