アンネを応援しに行きたかった幼い頃の私
ジェン ドブリィ!こんにちは!アリさんです。
わたくしとうとうアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所へ行って参りました。
実は3歳頃からずっとアウシュビッツへ行きたかったんです。
おっと、引かないで?待って?
そのキッカケとなったのが子供の頃に読んでいた絵本でした。
それは夜の読み聞かせ用に与えられた20冊ほどの偉人の絵本セットで、毎晩好きな本を選んでおかあさんのところへ行くのですが、その偉人セットの中にアンネフランクの本があったんです。
幼い私はアンネフランクの本ばかり選び、読まされる母は「また~?違うのにしない~?」と疲弊した表情で懇願するのが恒例でした。
絵本の世界で
「つらい時にも明るく希望を見失わなかったアンネ」
を私は応援しに行きたかった。
「まわりの大人はみんな元気がありませんでしたがアンネは笑顔で勇気づけます」
に加勢したかったのです。
それから私は大人になるにつれて、ホロコーストという歴史を知ります。
ホロコーストとは主にナチスによるユダヤ人大虐殺の事です。
アウシュビッツはまさにホロコーストが起こった恐ろしい場所で「負の世界遺産」として知られています。
この記事はホロコーストを題材にした「戦場のピアニスト」や「シンドラーのリスト」等の有名な映画をはじめ、マイナーなものまで見つけては見て、様々な文献も読んできた旅人の主観によるものです。
記事中、残酷な写真や表現が出てきますが「逃げずに向き合わなければならない」という気持ちで書き綴っています。
クラクフからアウシュビッツへのバスに乗る

ミニバス:12ズウォティ(360円)
クラクフ駅のそばにあるバスターミナル(MDA Bus Station Krakow)から乗ります。
時刻表はこちら。
アウシュビッツまではクラクフ駅から西へ約90分、バス一本で行けます。予約は不要。
バスの運転手から直接チケットを購入する事もできるし、あらかじめチケットカウンターで購入する事もできます。
バスの行き先はオシフィエンチム(Oswiecim)。
アウシュビッツがある町の名前です。
最近は写真のミニバスのようにアウシュビッツ博物館(Museum Auschwitz)とも併記されているバスが増えたそうですが、そもそも“アウシュビッツ”はドイツ軍が付けたドイツ語の名前なので「アウシュビッツへ行きたい」というと印象が悪いそうです。(辛い過去なのでね)
チケットを購入するときは「オシフィエンチム行き1枚」と言うようにします。
運行会社はいくつかあって、私は事前に大型バスで運行されているライコニック(Lajikonik)というバス会社の7時10分のバスに乗ると決めて6時40分にバスターミナルに着きました。
これはもう事前にブロガーさん達の記事を読み漁り、公式サイトも解読して準備万端で挑みましたよ。

今日だけは絶対バスに乗り損ねたくないよ!
チケットはバスの車内でも買えるとの事ですが、夏のアウシュビッツ行きバスは満席もよくあるそうなので不安・・・。
しかし事前に買って万が一当日寝坊して間に合わなかったらチケットがムダに・・・。
という事で当日の朝にチケットカウンターで購入する事にしました。
前日にバスターミナルのカウンター(2階)に行き「朝は何時から開いてますか?」と聞くと「5時です。」と言われ、前述のとおり6時40分に着いたわけです。
でね、開いてないの。

地上にあるバスカウンター
実は下調べの際、他の方のブログで朝一に行ったらカウンターが閉まってたという記事を読んでたんです。
その人はウロウロしていると1階に売店みたいにひっそり開いてるバスカウンターがあったそうなので、その情報を頼りに行きました。開いてました。
でね、もう予習のとおり!気をつけて!「オシフィエンチム行きください」って気張って言うじゃないですか。
そしたら「7時ちょうど発でG7ゲートから出発です。」と言われたんですね。
するとフツーは「あれ?7時10分発だったはず・・・」ってなるじゃないですか。
そこはね、私やっぱり予習してますから。
7時10分発なのに7時に出発したから気を付けてって注意喚起してくれてるブログも読んでたわけですよ。
むしろそれを見越して早めに来たわけですよ。
でもね、写真見て?「ライコニック(Lajikonik)」なんてどこにも書いてなくない?
むしろ「GT Trans」って思いっきり書かれてない?
カンの悪い私は
「なんかライコニックって書いてないけどどの車両が来るのかは運なんだな!」
って謎に自分を納得させてしまいました。
今思えば別のバス会社のチケット買ってたよね。
きっと7時10分にちゃんとライコニックの大型バスは出発したよ・・・。
今GT Transって調べたら超ポーランド語のHP出てきたから私はおそらくローカル寄りな乗り物に乗ってしまったみたい・・・。
途中で乗り降りする現地学生多かったしさ。
なので!
みなさんは他の方のブログとあわせて私のブログも参考に
「オシフィエンチム行き、〇〇時発の〇〇バスのチケットください」
って言ってくださいね!
ミニバスは安いけど揺れるよ!
アウシュビッツ強制収容所への行き方まとめ記事はこちら↓

それでもミニバスに乗ってしまったあなた。
まぁ多少揺れるだけなので安心してください。ちゃんと着きます。
ミニバスのバス停はアウシュビッツの右上のWięźniów Oświęcimia通りにあります。
航空写真のとおり、途中昼間でも木の陰になってて薄暗い道を通るので心細かったです。ビビリ
バス停からアウシュビッツまでは大体400mくらい。暗いのは200mくらい。
危ないという意味じゃなくて気持ちの問題ね。
ついクセでバスを降りるときに帰りのバス停の場所(反対車線になるだけだった)を確認したので、私は同じ方法でクラクフへ戻ってしまったけど、グーグルマップには堂々とLajikonik Bus From-To Krakowと駐車場の上あたりにライコニックのバス停のピンが立っていますね。おすすめですよ。
そっちで帰りたかったな。
日本語ガイドブックを手に入れる

追悼の場アウシュビッツ=ビルケナウ案内書
アウシュビッツには公認日本人ガイドの中谷さんという方がいます。
ぜひ彼のガイドで見学したかったのですが、3ヶ月前にメールで依頼したところあいにく団体予約が入っているとの事で断念しました。
それでも中谷さんは近い日程でガイドできる日を提案してくださるなど、とても親切な方でした。
ぜひ次回こそは・・・!
なので私は個人で見学する事にしました。
ガイドツアーの選択肢は中谷さんだけでなくクラクフからの一般ガイド付き見学ツアーも催行されているので、私のように中谷さんと都合が合わなかった方はそちらも調べてみてください。
ちなみに個人で見学する最大のメリットは自分のペースで好きなだけ見学できる事です。
アウシュビッツは展示内容が多く、ガイドツアーでは重要な箇所を絞ってのツアー工程になっています。
さらにクラクフからの一般ガイドによるツアーの場合、集合や道路状況による遅延があると見学内容を短縮されるリスクがあります。
とはいえ博物館系はガイド付きの見学の方が確実にわかりやすいので一長一短ですかね。
入場に関する注意事項
アウシュビッツに到着するとまず、予約確認や荷物検査の建物(写真撮影不可)があります。
A4サイズ以上でマチが10cm以上の荷物は有料預かりになるので、カバンが大きい人は貴重品を入れられる別の入れ物を用意しておきましょう。
入場の際にはパスポートが必要です。
アウシュビッツへの個人入場は無料ですが予約制です。
埋まりやすいので予約は早めのうちに済ませておく事を強くおすすめします。
当日券もありますが長蛇の列で、朝着いて夕方に入れたという方をよく見かけるので面倒くさがらず公式HPで予約しましょう。
アウシュビッツの公認ガイドツアー(英語・その他言語)を予約したい場合は、公式HPで各言語のツアーが選べるようになっています。
料金は3時間半のツアーで75ズウォティ(2,250円)6時間の1Dayスタディーツアーで115ズウォティ(3,450円)です。

入場時間が区切られているんだよ!
日中は基本的にツアーガイド同伴でないと入場できません。
個人で入場する場合は朝もしくは夕方以降と決まっています(時間はシーズンによる)
が、じっくり見学すると半日はかかるし最終バスを逃す人もいるのでやはり朝の時間に入場するのがいいと思います。
私は朝9時の予約を取っていて少し早く着きましたが、待ち時間なくすんなり入場できました。
予約時に入場券(バーコード付き)がメールで送られてくるのでその画面をスマホで提示します。
ゲートを抜けるといよいよ敷地内に入ります。
すぐ左手にあるBOOK SHOPと書かれた本屋さんには日本語のガイドブックがあるので、私のようにガイドなしの方は購入をおすすめします。
アウシュビッツのまわり方や解説が書いてあり、値段は16ズウォティ(480円)です。
【公式サイト】アウシュビッツ=ビルケナウ
ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)

恐怖の象徴、ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)
こちらが有名な「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になる)の門です。
実際はどんなに働いても帰してもらえないけれど、到着した収容者たちを安心させるためだったといいます。
ナチスは連行されてきた人々をスムーズに収容するために、この門の近くに歓迎の音楽隊を置いたり門を出入りする際に行進させたりと工夫したそうです。
「B」の字が逆さまなのはひそかな抵抗という推察が有名ですが、近年ではそれが当時流行りのフォントだった事がわかっています。

「働けば自由になる」の裏側にはドクロマーク

いよいよ中心部へ
正直私はめちゃくちゃビビリでして・・・。
アウシュビッツに対する恐怖をぬぐえぬまま来たのですが、晴れ渡る空の下の収容所はひとつの町のようにも見え、ここで起こった事を知らなければただのヨーロッパの街並みそのものです。
収容棟のひとつひとつには番号が振られています。
アウシュビッツⅠ4号棟
1階 ヨーロッパ中から連れてこられたユダヤ人

ヨーロッパ中からアウシュビッツへ
案内書を参考にまずは4号棟から見学します。
写真の地図は強制移住者がどこから列車で送られてきたのかを示しています。
ヨーロッパ中からアウシュビッツへ線路が伸びているなんて異常すぎる・・・。
アウシュビッツ、私がミニバスで90分揺られてきたようにめちゃくちゃ郊外にあるんです。
小さな町の端へ向かって、これだけの列車がユダヤ人を乗せて走ってきたという事です。

最期の姿
この壺を最初に見たとき「なんだろう?」と思いました。
案内書を確認すると
「殺された人々の骨の粉が入った壺」。
衝撃でした。
私の中に「死」という感覚が一気に近づいてきました。
サーッと血の気が引きます。
わかっていてここへ来たのに、ああ、やっぱり、現実だったんだ、と。
この人たちはこんな所に納まるために生まれてきたんじゃない。
なのに、なのに!と引いた血が、カーッとのぼっていきます。

ハンガリーから連行されたユダヤ人
胸にダビデの星マーク、コートを着ている、女性と子供しかいない、高齢の人もいる、荷物を持っていない。
この写真はビルケナウに到着したユダヤ人が“選別”を受けてすぐのガス室へ向かう人々です。
ビルケナウとはアウシュビッツⅡとも呼ばれるアウシュビッツⅠに追加してつくられた絶滅収容所で、ここから3キロほど先にあります。
そして“選別”とは、収容者を「いるかいらないか」一瞬で判断する事です。
連れてこられたユダヤ人は到着してすぐに必要・不要に分けられ、割合としては全体の約75%から80%が「不要」と見なされます。
特に妊婦や子供、高齢者、身体障がい者のほとんどは「不要」の列に並ばされました。
不要の人が行く先はガス室です。
公認ガイドの中谷さんはあるインタビューでこの写真について
「バラックへ入る前に“まずはシャワーを浴びて消毒する”と聞かされガス室へ向かいます。彼女達がそれを信じたかどうかは表情で判断するしかありませんね。」
と答えていました。

到着直後、選別前
写真の奥に有名な「死の門」が見えます。
死の門は地獄への入口。
この門をくぐれば出口はガス室の煙突だけだとも言われました。

選別後
到着したユダヤ人が選別を受け、荷物だけが取り残されます。
これら荷物は没収され「カナダ」と呼ばれる保管庫へ移されたあと、カナダ隊(収容者)により仕分けられます。
没収品はドイツへ送られましたが金や宝石の隠匿が横行し、親衛隊員(ナチス)が私腹を肥やしました。
親衛隊員にとってアウシュビッツは戦争の前線に送られるよりずっと安心で、晩年のインタビューでは「仲間と楽しくやれた良い時代だった」と証言するナチスの将校もいました。

選別の様子
「お前は左、お前は右」と振り分けられていきます。
左は「生」、右は「死」を意味します。
左に行けるのはたったの25%。
もちろん到着したばかりのユダヤ人はこの選別の意味を知りません。

カナダ隊
没収した荷物を保管するカナダ。
カナダ隊は髪を伸ばす事や囚人服以外の衣類を着る事を許されている、アウシュビッツの中では待遇の良い仕事でした。
おそらく到着したユダヤ人の目に付く仕事なので、健康的に働いている姿をアピールしたかったのではないでしょうか。
ドイツの親衛隊員ヴンシュは、カナダ隊に所属していたユダヤ人のヘレナに恋をし、ヘレナとその姉の命を救ったというエピソードもあります。

周辺マップ
アウシュビッツは第3収容所までありました。
3つめのモノヴィッツはソ連軍に破壊され今は残っていませんが、当時はファルベン化学に隣接しており強制労働で2万5千人が犠牲になりました。
ファルベン化学はドイツの軍需生産に携わる大手民間企業です。
ユダヤ人の労働力と炭鉱を目当てにモノヴィッツ工場を開設しましたが、工場で働かされた収容者は極端に短命でした。
2階 アウシュビッツで作り上げられた殺人システム

ガス室へ向かう女性達
左のパネルはユダヤ人収容者が隠し撮りした写真です。
赤い四角に囲まれた部分を拡大したものが右のパネル。
女性が衣服を脱ぎ裸でガス室へ向かう様子が写されています。
ナチスは収容者をガス室に閉じ込めるまで真実は語りません。
「シャワーだ」
「収容前に洗浄しなければならない」
そう言ってせっけんを持たせてガス室へ送り込むのです。
それらしく見せる為に脱衣所には番号付きのハンガーがあったり、ガス室の天井には見せかけのシャワーが設置されていました。

ビルケナウのガス室
ビルケナウのガス室はドイツ軍により証拠隠滅の為に破壊されたので模型が展示されています。
ビルケナウにガス室は全部で6つあり、クレマトリウム2、3、4、5と農家を改造した赤い家と白い家です。
展示されているのは最も規模の大きかったクレマトリウム2。
模型の手前の図面のようにT字の構造となっており、地下に降りるとT字の左部分に入口と脱衣所、下部分がガス室と遺体運搬用のエレベーター、右部分に焼却炉とそこに繋がる5か所の遺体搬入口、遺体処理班(ゾンダーコマンド)の住居がありました。

使用済みのツィクロンBの山
シャワーだと聞かされ裸でガス室に入れられた人々。
鉄の扉が閉まると親衛隊員がガスマスクを着けてガス室の上に開いた穴から猛毒のツィクロンBを投入し、穴に蓋をします。
するとじきに閉じ込められた人々の泣き叫ぶ声や暴れる音が聞こえてきます。
ツィクロンBから毒ガスが発生し酸素の欠乏状態に陥るのです。
すぐには死ねません。
20分近く苦しみ、恐怖におののき、暗闇の中で自分たちの運命を悟りました。
ガス室がしんと静まった頃には裸の人々が折り重なり、山が出来上がっています。
アウシュビッツはまさに殺人工場。
ナチスはいかにたくさんの人を効率よく死体に仕立て上げるか、工場の“生産性”を重視し工夫を重ねました。
そもそもガス室は親衛隊の精神的負担を減らす事と、処理数を上げるための工夫から生まれたものです。

クレマトリウム5前から隠し撮りされた写真
そうして積み上げられた遺体を処理するのは彼らの同胞であるゾンダーコマンドと呼ばれるユダヤ人収容者です。
彼らは特殊作業班として扱われ一般収容者とは別にガス室のそばに住み、遺体の山を運搬しガス室を清掃します。
そして口封じのため数か月で自身もガス室へ行く運命を辿るのです。
野外焼却所で彼らが働いているところを命がけで盗撮したゾンダーコマンドがいました。1944年8月の事です。
当時ガス室の存在そのものがまだ世間に隠されていました。
既出のガス室へ向かう裸の女性達の写真と共に
「これを広めてくれ。写真さえあれば世界へ広まるはずだ。信じてもらえるはずだ。そしてフィルムをもっと送ってくれ。」
という内容の手紙が添えられていました。
2階5号室 声にならない悲鳴
5号室は写真撮影禁止の部屋です。
部屋に入ると壁際が大きく全面展示スペースになっています。
そこに展示されているのは大量に積まれた
2トン近い犠牲者の頭髪・・・。
おさげをそのまま切られたものもあります。
他の強制収容所と同じくアウシュビッツに連れてこられた人たちも、生きていても死んでいても髪を切られました。
織物やフェルトの材料として使う為です。
髪は米袋のように大きな袋に詰めてドイツの企業へ売られました。
その人毛でつくられた織物が右手に展示されていますが、正直「人の髪でつくりました」って言われないとわからないような仕上がりです。
ナチスはガス室の遺体から髪だけでなく、金歯も抜き取りました。
溶かして棒金にするのです。
アウシュビッツにある生産内容の報告書には「ゴールド〇〇kg」と記載されています。
「人の金歯〇〇本」ではありません。
殺された人々は髪も歯も服も奪われ葬られました。
その棒金は今どこにあるのでしょうか。
流通してしまった今となってはわかりません。
世界各国の銀行にあるかもしれないし、誰かのアクセサリーに加工されているかもしれません。
これを聞くと途端に他人事ではいられなくなりませんか?
ホロコーストは現実に起こった事。たった75年しか経っていない近代社会で起こった事です。
アウシュビッツⅠ5号棟

5号棟
戦争の末期、イギリスやアメリカなどの連合国軍がアウシュビッツに迫ると、ナチスはガス室を破壊したりユダヤ人からの略奪品を処分したりと大量虐殺の証拠を隠滅しようとしました。
5号棟には主に破棄が間に合わなかった一部の遺品が展示されています。
1階 奪われたアイデンティティ

眼鏡
遠くから見ると何かわからず近づいて見るとそれはメガネでした。
これは光を失った人達の氷山の一角に過ぎません。

義肢
彼らの身体の一部です。
貨車へぎゅうぎゅう詰めに押し込まれ数日かけてアウシュビッツにたどり着いた障がい者の運命は、生きる可能性を与えられる事なくガス室へ送られるしかありませんでした。

人権を認められなかった障がい者達
ナチスは
「我々アーリア人こそ優秀な人種である」
という思想のもと犯罪者や同性愛者等との混血を嫌がり、絶滅させる事を目指しました。
ユダヤ人以外にもナチスが“好ましくない要素”と見なした人々は強制収容所へ移送されました。
障がい者もまた
「戦争は不治の病人を抹殺する絶好の機会」
というヒトラーの提言により、生きる価値なしと判断されたのです。

食器類
アウシュビッツから生還したユダヤ系ポーランド人のキティは
「鉢は大切で常に身に着けていた。スープをもらうのにもトイレの代わりにも使う。鉢をなくせば命がなくなる。」
と語っていました。
小柄な彼女は1年半もの間ビルケナウで生き延びました。
彼女は自身が生還できたのは目立たないように存在感を消し、死者のパンと物をもらう術を身につけたからだと言います。

ブラシ類
大量の髭ブラシや歯ブラシ、衣類用のブラシがあります。
ユダヤ人といえば男性は髭を蓄える文化があります。それを整えるために髭ブラシは必須アイテムでした。
まだ収容所の実態を知らなかった彼らは、荷造りをしている時にも身なりを整えられるよう準備してきたはずです。
使える事はないとも知らずに・・・。
2階 信じたかった未来

カバン
持ち主を失ったカバンが山積みにされています。
これもナチスの破棄が間に合わなかったごく一部の遺品です。

名前や住所が書いてある
トランクを荷物を没収する際、収容者を安心させる為に
「帰るときに自分の物とわかるよう名前と住所を書きなさい」
と言って書かせました。
カバンには目立つように蓋の部分に大きく書かれています。
きちんと自分のもとへ返ってくるようにという思いが字を大きくしたのでしょうか。
それとも、もう二度とこのカバンを使える事はないと察して書いたのでしょうか。
日常生活に戻ったときに使う事を考えれば目立たない場所に書きたくなりそうなものですが、そんな事を考える余裕もなかったのかもしれませんね。
収容棟の窓からは木漏れ日が差しています。
この窓を眺めながら
「いつかここを出られたら何をしようか」
そんな事を考えていた人がいたかもしれません。
もしくは脱出する方法を考えていたかも。
・・・でもそれは叶うことはなかったでしょう。
窓の右手の影が何かわかりますか?
犠牲者の靴です。
紳士用、女性用、子供用、おびただしい量の靴が無造作に積まれています。
彼らはアウシュビッツに到着した際に靴まで没収されたのです。
ここでは自分の靴を没収される代わりにサイズの合わない作業靴や木靴を履かされます。
左右バラバラなんて事はザラ。
合わない靴は靴擦れを起こし、そこからばい菌が入りパンパンに腫れ動けなくなります。
働けないという事はここでは生きていけない事を意味するのです。
最初の選別でガス室行きを免れた人も、そのうち殺されました。
アウシュビッツを出られた人は10人に1人もいません。
収容所が解放されたときには数千人しか残っていませんでした。
命を落とした犠牲者は少なくとも110万人にも上ります。
靴は廊下を挟んで両サイドに展示されています。
天井にまで届きそうなほど高く積まれ、持ち主の無念を感じます。
こんなに大量の靴に囲まれている自分に気付くと、呼吸するのも忘れてしまうほど固まって動けなくなってしまいました。
続く↓

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