人類の過ちのひとつ、ドイツによるユダヤ人の迫害。
代表的な強制収容所アウシュビッツはなぜ生まれたのか。そこで何があったのか。
時代を追ってみましょう。
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1933年
1月 ヒトラーが首相に
第一次世界大戦で負けてしまったドイツは貧しく、失業者も多く、ドイツ国民は弱い政府にうんざりしていました。
そこへそれまでは細々と活動していたドイツ労働党(ナチス)のリーダーが猛烈な勢いで
「ドイツを豊かにしてみせる!」
と熱弁すると、国民は新しい指導者として彼に期待を寄せました。
そいつ(おっと失礼)があのちょびヒゲのアドルフ・ヒトラーです。
ヒトラーがドイツの首相に就任しヒトラー内閣が誕生しました。
そのヒトラーの方針が「反ユダヤ主義」。
ドイツ国民が直面する不況や貧困などの問題をユダヤ人のせいにする事で、国民を盛り上げ権力を強めていきました。
1939年
9月 ドイツがポーランドを攻撃、第二次世界大戦へ
ヒトラー政権でテンションがあがっていたドイツは宣戦布告もせずいきなり隣の国ポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まります。
ポーランドも慌ててドイツに抵抗しますが、ドイツ軍の戦車に対し馬に乗って立ち向かっていったので軍事力の差は歴然でした。
すぐにイギリスとフランスが
「我々はポーランドの味方である!」
とドイツへ宣戦布告しましたが、戦闘に介入する事はなくまだ様子見の状態でした。
さらにドイツがポーランドを支配しようと動き出したのを見て、ソ連(現在のロシア)がドイツと反対側からポーランドへ攻め込んできました。気の毒すぎるポーランド・・・。
第二次世界大戦はおおまかにドイツ・イタリア・日本 VS 連合軍(イギリス・フランス・アメリカ・ソ連・中国他もろもろ)です。
つまり日本はドイツの味方でした。
10月 ポーランド降伏
東西から攻め込まれもはや太刀打ちできないポーランドが降伏。
国は分割され西をドイツ、東をソ連にもっていかれました。
するとドイツ側はゲットーという居住区域をつくり、そこにユダヤ人を閉じ込めました。
ゲットーは各地に複数つくられ、強制的に移住させられたユダヤ人は自分の家や持ち運べない資産を失いました。
またナチスがポーランド人を大量に逮捕したので刑務所が満杯になり、強制収容所をつくろうという構想が生まれました。
1940年
4月 アウシュビッツ建設命令
ナチス親衛隊の司令官ヒムラーが色々下見した末、ポーランドのクラクフ郊外の町オシフィエンチムにあったポーランド軍の兵舎を使って強制収容所をつくる事を決定しました。
その場所がのちに人類の負の遺産となるアウシュビッツ(オシフィエンチムのドイツ語)です。
アウシュビッツがポーランドにあるのは、当時ドイツが占領していたからです。
またこの頃ドイツ軍が北欧に侵攻しデンマークとノルウェーが占領されました。
さらに翌月には中立を宣言していたオランダにも手を出し、同時に攻撃を仕掛けられたベルギーもドイツの支配下に置かれ多くの犠牲者が出ました。
ナチスの犠牲者として有名な少女アンネフランクもドイツのオランダ侵攻により長い隠れ家生活を強いられる事になります。
ドイツはどんどんヨーロッパの国を手に入れ勢力をのばしていきました。
6月 アウシュビッツ始動

アウシュビッツ
ナチスに抵抗したポーランド人等728人がアウシュビッツへ移送されました。
彼らがアウシュビッツ初の収容者です。
さらに付近の住民に収容所を目撃される事や脱走への協力、収容者との接触を恐れたナチスは約8千人の近隣住民を追い出しました。
この頃イギリスと共にドイツへ宣戦布告していたフランスが降伏し、ドイツはフランスまで手に入れました。
11月 最初の犠牲者
アウシュビッツで40人のポーランド人が銃殺されました。
ここから4年以上に渡る悲惨な歴史が幕をあけたのです。
犠牲者は最終的に確認されているだけでも110万人にのぼります。
1941年
4月 餓死刑
アウシュビッツから脱走者が出ました。
その報復に所長のルドルフ・ヘスは収容者から10人選び餓死刑を執行しました。
連帯責任を負わせる事で、脱走のたくらみを防ぐためです。
餓死刑は地下にある専用の牢屋に閉じ込められひたすら死ぬのを待つしかありません。
受刑者のほとんどは気が狂った末に亡くなりました。
6月 ポーランド人以外の移送
アウシュビッツにチェコ人が移送されてきたのを皮切りに、ポーランド人以外の政治犯等がアウシュビッツに到着しはじめました。
ヨーロッパ各国を支配していたドイツはもはややりたい放題!
誰にも止められません。
7月 コルベ神父身代わりで死去
カトリック教の司祭だった収容者コルベ神父が、餓死刑を言い渡された人が妻子に会いたいと泣きくずれたのを見てみずから身代わりを申し出ました。
コルベ神父は地下牢に入れられたあとも精神を病んでいく周りの受刑者を励ましつづけ、仲間の死を看取っていきました。
彼は強い精神力で餓死に至らず、親衛隊による毒注射で亡くなりました。
コルベ神父に命を救われた収容者により彼の偉業は広まり、ずっと称えられる事になります。
(詳細はPart3参照)
9月 ツィクロンBを初使用

ツィクロンBの缶
収容者が増え処刑数も増えると親衛隊の精神的なストレスが問題になってきました。
そこで直接殺さずしかも大量に殺害できる方法としてガスによる毒殺が持ち上がります。
その結果アウシュビッツで虐殺の主力となったツィクロンBがここで初めて登場しました。
実験的に11号棟の地下で600人のソ連軍捕虜と250人のポーランド人が毒ガスにより殺害されました。
11号棟の詳細はこちら↓

10月 ビルケナウ建設開始
もっとたくさんの収容力を欲したナチスはアウシュビッツから3キロ離れたブジェジンカ村に第二の強制収容所をつくる事にしました。
そのドイツ語名がビルケナウです。
ブジェジンカは湿地帯で冬はマイナス20度にもなる厳しい土地でした。
また1階建てだったアウシュビッツの収容棟も増築され、現在のとおり2階建てになりました。
11月 死の壁で大量虐殺

死の壁
10号棟と11号棟の間にある中庭にコンクリートの壁が設けられました。
壁の前に収容者を立たせて銃殺するのです。
初めての犠牲者はポーランド人151人でした。
以後、数千人がそこで処刑され、その壁は「死の壁」と呼ばれるようになりました。
1942年
3月 ビルケナウ始動

ビルケナウ
ついに本格的なユダヤ人の移送が始まります。
アウシュビッツとビルケナウの中間あたりにユーデンランペと呼ばれる移送用の駅が設けられ、スロバキアから2万7千人、フランスから6万9千人のユダヤ人が一気に貨車で送られてきました。
ガスによる毒殺に味を占めたナチスはポーランド人から取り上げた農家を改築し、臨時ガス室を2つ設けました。(通称赤い家・白い家)
その小屋には数百人が詰め込まれ、ツィクロンBが投入されると数十分苦しんで息絶えていきました。
5月 選別が行われるようになる

選別の様子
ポーランド国内から30万人、ドイツ・オーストリアから2万3千人のユダヤ人がビルケナウへ送られ、収容するかガス室へ送るかを決める選別が始まりました。
選別の基準は労働力になるかどうかで、高齢者や妊婦、子供、障がい者はガス室へ送られます。
男性であっても自分が労働力になると思われるように職業を偽り、命拾いした人もいました。
7月 アンネフランクが隠れ家へ
ナチスのユダヤ人大量虐殺を知ったドイツの実業家がイギリス等の連合軍(ドイツの敵)に情報を渡し、内部事情が連合国側に知られていきます。
そうしているうちにもオランダからは6万人のユダヤ人がアウシュビッツへ送られました。
ドイツはもちろん虐殺の事実は隠し、労働キャンプで働くという名目で人々を呼び出し連行しました。
アンネフランクの姉マルゴットにも召集令状が届きましたが、両親は労働のためだとは信じず翌日から家族で隠れ家へ移る事になりました。
それは人に見つからないよう、物音を立ててはいけないつらい暮らしでした。
オランダへ避難していたフランク一家は皆もともとドイツで生まれ育ち。
父オットーは第一次大戦でドイツ軍の将校まで務めたにも関わらず、ユダヤ人という理由だけで迫害の対象となりました。
10月 モノヴィツェ収容所始動

周辺マップ
アウシュビッツ、ビルケナウに加えモノヴィツェ村(ドイツ語名モノヴィッツ)に新たな収容所が設置されました。
モノヴィッツ収容所は収容者の安い労働力を目当てに進出してきたドイツの民間企業に隣接してつくられ、アウシュビッツⅢとなりました。
このモノヴィッツ収容所から工場へ強制労働させられた人々は短命で、かなりの確率で命を落としています。
12月 断種実験開始
ユダヤ人を根絶するために女性を不妊化する実験が収容所の女性に対して施されました。
安く、早く処置するために手術をしない方法として主に注射が試されました。
この実験は当然犯罪です。
しかしアウシュビッツの収容者は実験台として医師から利用され、多くの女性が傷めつけられ命を落としました。
その頃のドイツはポーランドやウクライナ、ロシア等の東方をドイツの植民地化する事を目標に、ポーランドの民間人をアウシュビッツへ移送しました。
1943年
2月 ロマ族も標的になる
ヨーロッパ各地を渡り歩きながら暮らすスタイルの人々を無理やり民族化し、アウシュビッツへ送りました。
そのためにビルケナウにロマ族用の区画が設けられました。
3月 ガス室の本格化
ビルケナウ内に大型のガス室が4つ建設されました。
これにより数十分で数千人が命を奪われる事態となりナチスの歯止めがきかなくなっていきます。
ガス室に入れられた人々は亡くなった後も金歯を抜かれたり髪を切られたりしました。
抜かれた金歯は溶かして棒金に、髪は織物に使われたのです。
7月 アウシュビッツⅠで公開処刑

集団絞首台
アウシュビッツから脱走し外部の民間人と連絡を取った収容者が出たため、見せしめに12人のポーランド人が集団絞首台で死刑になりました。
これは収容者たちの前でおこなわれ恐怖心を植え付ける事が目的でした。
この頃からドイツ軍の戦況は悪くなり徐々に後退を始めます。
連合軍はドイツの同盟国のイタリアまで迫っていました。
9月 テレジンゲットー区域
チェコにあるまるごと収容所にされた町テレジンから送られてくるユダヤ人を収容するために、ビルケナウ内に家族収容所が設立されました。
テレジンからは8万8千人のユダヤ人が移送されほとんどはガス室へ送られました。
残った人もさらにテレジンからユダヤ人をおびき出す為に無理やり手紙を書かされました。
1944年
5月 鉄道の線路がガス室まで伸びる

終点ガス室前
ビルケナウ内まで線路が引き込まれ移送者はガス室のそばで貨車から降ろされるようになりました。
犠牲者は増えるばかりでついにハンガリーからアウシュビッツ史上最大規模である40万人以上のユダヤ人が移送され、32万人はそのままガス室へ送られました。
この頃連合軍はアウシュビッツ上空を通過し、収容所の全貌を写真撮影しています。
7月 テレジンからのユダヤ人区域を取り壊す
家族収容所として使われたテレジンゲットーからのユダヤ人区画が解体され、7千人がガス室へ送られました。
その中には家族や親族からのウソの手紙でテレジンから出てきた人もいたのではないでしょうか。
8月 ワルシャワ蜂起
ポーランドの首都ワルシャワでソ連軍の呼びかけに応じたポーランド人の抵抗勢力が国内軍としてドイツへ攻撃を仕掛けます。
ソ連軍が加勢にくると信じていた国内軍は、数人に一人しか拳銃がないような物資の乏しさの中必死に戦います。
しかしソ連軍はワルシャワで日付と時刻を決めて合同で戦う約束だったにも関わらず、合流せず対岸で静観しているだけでした。
その結果ワルシャワ蜂起は失敗に終わり、抵抗勢力に加勢したポーランド市民を含む22万人もの人が亡くなり、捕まった1万3千人のポーランド人がアウシュビッツへ送られました。ソ連軍も最低。。。
一方アメリカ軍をはじめとした連合軍はパリを制圧しました。
ヒトラーは
「パリを連合軍へ渡す前に廃墟にしろ」
と廃墟命令を下していましたがその命令は実行されず(できず?)、イラだったヒトラーは
「パリは燃えているか?」
と3度も確認しました。
この「パリは燃えているか?」は後世に残る名言となります。
さらにこの頃、アンネフランク一家はとうとう見つかってしまいアウシュビッツへ移送されました。
10月 ゾンダーコマンドの反乱
アウシュビッツ内で遺体処理をさせられていた特殊作業班ゾンダーコマンドによる反乱が起こり、ガス室Ⅳが爆破されました。
ゾンダーコマンドは収容者が命じられ担っていましたが彼らは大量虐殺の秘密を知っている為、定期的に口封じとして殺害されていました。
自分たちの運命に気付いたゾンダーコマンドは水面下で少しずつ物資を集めてナチスに抵抗しましたが、400人以上がその日のうちに殺害されました。
11月 ガス室の停止

ガス室Ⅱ跡
戦況が悪くなっていたナチスドイツは、収容所の撤退を見据えてガス室を停止します。
さらに労働力の残っている収容者はドイツ国内へ順次移送されました。
ここにアンネと姉のマルゴットも含まれ、ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所へ送られたあとチフスで亡くなりました。
1945年
1月 死の行進、アウシュビッツ解放

破壊後
いよいよソ連軍が迫りナチスのアウシュビッツ撤退に合わせて残っていた6万人も道連れにされました。
鉄道での移送は間にあわず何日も歩かされ、遅れれば射殺され、1万5千人以上が犠牲となりました。
これを死の行進と呼びます。
さらに大量虐殺の証拠隠滅の為、ナチスはビルケナウのガス室や収容者が入れられていたバラックを破壊しました。
その後1月27日、ソ連軍によりアウシュビッツが解放され、残されていた7千人あまりが救出されました。
4月 ヒトラー自殺
ドイツ軍の敗戦は避けられず追い詰められたヒトラーは、ベルリンにある自宅の地下壕内で確実に死ぬために毒と拳銃を併用して自殺しました。
自分が死後晒される事を恐れたヒトラーは、部下に遺体を燃やすよう命じていました。
ヒトラーが入った部屋から銃声が聞こえると部下たちは死亡を確認し、命令通り亡骸にガソリンを撒き燃やしました。
その頃の連合軍はヒトラーの家から数百メートルの場所まで迫っていました。
ヒトラーが亡くなった8日後、ドイツは無条件降伏しヨーロッパにおける大戦は終結を迎えました。
まとめ
ユダヤ人迫害はドイツだけのせいではありません。
誰もがナチスになり得るし、ユダヤ人になる可能性もあるのです。
私たちは過去から学び、自分と違う人を認める事、尊重する心を大切に守っていきたいですね。
筆者ののアウシュビッツ見学体験記↓

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